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何から話せばいいのかわからない。
彼女は清々した様子で、のんきに車内広告を見ていた。
平日の昼下がりの電車は思ったよりも混んでいる。
長い地下鉄から出て、また長い長い電車の旅だ。地上の電車は、景色が見えるから少しはマシだった。
そう思えるのはたぶん、外が明るくて今日が平日だからだろう。いつもならわたしも彼女も就業中の時刻。
いくつかの駅を越えて、少しずつ人が減っていく。
この時間にサラリーマン風の人たちがこんなに乗っているとは意外だった。
長い電車の道のりを半分くらい行って、やっとわたしたちは座ることができた。
彼女は車内広告に飽きたのか、座席から周りを見渡してわたしに耳打ちする。
「意外だよね。すぐにみんな降りちゃうかと思ってた」
「ほんと。郊外から打ち合わせに行ってたのかな。リクルートって感じの歳じゃなさそうだし」
向いの中年サラリーマンは日差しが暑すぎるようで、日よけを下ろしてからもハンカチで汗をぬぐっていた。
その隣に間隔を空けて座る三十代くらいの男性たちは、新機種の携帯電話についてさっきから話し続けている。
「みんな、早退だったら面白いよね」
「わたしたちみたいに?」
「そう」
「世の中、みんな調子悪いんだね」
「病院もこんな感じで混んでるね」
「温泉もね」
小さく息を漏らして笑った。
彼女は窓の外を眺めはじめる。わたしは電車の音を聞いた。
電車はわたしたちを、いつもの現実ってやつからどんどん離していく。
わたしの意識はもうろうとしていた。
それも仕方がないことだ。頭痛は止まないし、立ちくらみも止まらない。
即入院を医者に命じられたのを振り切って、午前中だけ会社に行った。机とデータを整理して、入院の準備をしたつもりだ。
彼女は昨日、会社を辞めたのだという。
富山の銀行に勤めているはずの彼女を新橋で見かけるとは思わなかった。しかもこんな日に。
学生のときと変わったのは髪型くらいだろう。すぐにわかった。だからこそ、驚きも倍だった。
「相変わらず、たくましいね」
退職の話を聞いて開口一番に出たのがそんな言葉だった。
自由に、飛んだり跳ねたり。過労で膨張した内臓を重く引きずるわたしとは大違いだ。彼女はこれから箱根の温泉宿に行くらしい。
「ま、いろいろあったからさ」
ごく軽く彼女は言った。
彼女のいろいろって何だろう。
副業、というほどではないと言っていたが趣味がこうじて写真家をしているのは知っていた。個展を開いたとも聞いている。
おおかたそのあたりのことで、軌道に乗ってきているのだろう。彼女らしい。
「わたしには何にもないから。なんかうらやましいよ」
相変わらず、だ。何年もわたしは変わっていない。
「なんにも? 嘘ばっかり。何にもなかったらこんな電車になんて乗ってないでしょ」
「過労も何かのうちってこと? そうじゃないよ。そういう意味じゃなくて」
彼女が言葉を遮った。だけど声を荒げることなく、穏やかに。
彼女が遮った、というのは正しくない。目線があっただけでわたしは言葉を失ったのだ。
「わたしはね。基本的に、出来損ないなの。うまく立ち回れなくてね。
それでも3年の修行はできたから、もういいかなって。わたしはあの場所にとって必要な人間じゃないから」
意外だった。
同時に、納得がいく言葉だった。
「無理して働け。なんていう人はどこにも存在しないよ。ありがたいことにね。それがわかったし、わたしもそこにしがみつく理由が見つからなかったから。出ちゃった」
笑った顔は、どこか安心したような印象を受けた。
「何にもないんだったらね、こんな電車に乗らないよ。わたしはきっと、今も金勘定に追われているよ」
電車はどんどん遠くへ、わたしたちをいつもの現実から離していく。
彼女とこうやって話して三十分は経つが、わたしの最寄り駅にはまだ着かない。
「遠いね。いつもこんなに遠くから通ってるの?」
「うん。もう慣れちゃったけどね。今は体調が悪いから。ちょっときついかな」
大きな川を2本越えると、わたしの最寄り駅が見えてくる。
今日はここからバスで病院へ向かう。
「じゃあ。わたしは、ここで」
「うん」
「気をつけてね」
駅で降りたのは数名。乗ったのはもっと少ない。
車内はいつの間にか、ほとんど彼女だけになっていた。
電車を降りて、ベンチに座り込む。彼女を乗せた電車はこのまま終点まで。
ぼんやりと彼女の電車を見送る。彼女は一度、車窓越しに手を振ってまた景色を眺めはじめた。
わたしは、またこの電車に乗って現実に戻るんだろうか。戻れるんだろうか。
いなくなった彼女のあとを埋めるように、次の電車が滑り込んでくる。
毎日、何度も繰り返されることだ。それは、当たり前のこと。
立ち上がるとまた立ちくらみがした。
風はわたしの頬をなでたが、微熱で朦朧としたわたしにはただの風にしか思えなかった。