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土鍋のふたをあけると、白い湯気にのって肉や野菜の匂いが一気に広がった。
「おお」
僕たちはそれぞれ小さな声を漏らす。
視線は土鍋に集約されている。そのうちにおたまを持った母がやってきて、最初に姉、次に僕、妹、父、母の順番で器によそっていく。僕たちはそれを静かに待つ。ひとつの鍋をつつく、という表現があるが、わが家の食卓にそれはない。鍋は、母から与えられるものだ。野菜も肉もしらたきも、すべてバランスよく。美しい比率で与えられる。
そして最後には雑炊になって、汁すらなくなる。最初から最後まで無言で行われるそれは、何かの儀式のようだった。
普段の食卓と異なるその雰囲気こそが、わが家の鍋。口のなかでほろほろとほどけていく鱈を咀嚼しながら、僕は自分の器と鍋だけを見つめた。
その不文律を最初に壊したのは、一つ下の妹だった。
中学に上がるとすぐ、妹は鍋を食べなくなった。最初は注意していた母と姉だったが、そのうちに何も言わなくなった。僕と姉の器には、前よりも少しだけ多くよそわれるようになった。
「まだまだ、成長期だからね。いっぱい食べてね」
母は笑って、雑炊をよそった。
次に不文律を壊したのは、父だ。
「もう歳だから。こんなに食べられないよ」
僕たちはたぶん、同じことを思ったと思う。いや、晩酌のつまみにしていた冷凍からあげのせいだろ。って。
母は咎めることなく、あきらめたようにその主張を受け入れた。僕と姉の器には、またよそわれる量が増える。細身の姉は少し苦しそうにそれらを平らげる。五人分の鍋料理を、実質三人で食べきるのは少しきつい。僕は高校に入ってから増えた買い食いを、鍋のある日だけは控えるようにした。妹は高校に入ってからも相変わらずで、鍋のある日は食卓につかない。アルバイトを始めたらしく、服装と化粧はどんどん派手になっていった。
僕と姉はあまり変化がなかった。妹を見ていて思ったが、大学生になってからも姉は行動が変わらないように思う。化粧をしたり彼氏をつくったりしないのだろうか。そうでなくとも、新しい趣味にハマったりとか。妹なんて、自分でお金を貯めては遣い、友達とディスニーランドに行ったりコンサートに行ったりと青春を謳歌している。時折、その浪費を母に咎められるが無言で睨み返すだけだ。
何も言わず、ただその場を去る。それはわかり合うことを一切拒絶した強い態度でもあったし、一番卑怯な態度でもあった。
だって、母は減らさなかった。
与えられ続ける僕と姉は、それを受け取り続けるしかなかったのだ。
部活が終わってから、僕はひとりで帰宅する。今夜は鍋にする、と朝に言われたから。コンビニのピザまんを断り、さっさと帰った。弁当箱を出しに台所に行くと、母が鶏肉をさばいていた。鶏肉。難敵だ。僕は部屋に戻ってからも空腹を忘れないように注意深く水を飲んだ。満腹になってはいけない。だけど、空腹に体を慣らしてもいけない。姉も同じように過ごしていることだろう。
意味もなく部屋とリビングをさまよっていると、妹が帰宅した。
妹は、台所をのぞくと一瞬顔をしかめた。足早に部屋に向かう。きっといつものように、着替えてどこかに行くのだろう。どこかに行って、誰かと、もしくはひとりで好きなものを好きに食べるのだろう。
いつものように。
なのに、こんなにも苛立つのは、きっと空腹のせいだ。
僕は妹を咎めた。お前の分まで僕たちは食べているのだと。正直けっこう大変なんだと。少しでもいい、いっしょに食べてほしいと思った。妹は鼻で笑った。
「そんなの。お母さんの勝手でしょ。お母さんはお母さんの勝手なんだから、お姉ちゃんもお兄ちゃんも好きにすればいいんだよ。お父さんだって好き勝手にやってる。がんばる必要なんてないんだよ」
なんて勝手なやつ。
僕は思いつく限りの暴言を妹に投げつける。妹も暴言で返してきて、腹立たしさはどうにもならない。ただ、僕と妹が険悪になっただけだ。
僕はサイフだけポケットに突っ込んで、乱暴に家を出た。
喉が渇く。いくつもの自販機を横目で見ながら通り過ぎる。
ローソンの看板ですら、あのマークですらおいしそうに見えた。それも通り過ぎる。
本屋に入った時も、グルメと料理のコーナーだけは近寄らなかった。
僕は彷徨った。
だけど何も食べなかったし飲まなかった。
家に帰ると妹はとっくにどこかに行っていて、姉と母が二人で鍋と格闘していた。
倒れそうなほどの空腹だった僕はむさぼるようにそれを食べる。母は喜び、姉は心底安堵した様子だった。雑炊の段階になるとさすがに腹は膨れ、いつものように三人で黙々と平らげた。
「よかったよ。あんたが帰ってきてくれて」
リビングのこたつに入りながら姉が言う。
「食べ始めてもぜんぜん帰ってこなかったからさ。もう、ダメかと思った」
「悪い。本屋入ったら、思ったより時間経っちゃってて」
そうだ。本。買ってきた本を読もう。僕もこたつに入って横になる。
姉も同じような体勢で消化を待っていた。ボブの髪は黒くつやつやとしていて、丸く小さな頭のかたちを強調しているようだった。中学くらいからずっと同じ髪型。体型も顔つきも、もう二十歳だというのに変わらない。
「姉貴。母さん、いつになったらああじゃなくなるんだろうね」
「どうかな。鍋は、ああいうものだと思っているのかもしれないよ。実際言っても、変わらなかったし」
「言ったんだ」
「何回も言ったよ」
本から目線を上げて姉を見る。
姉は大の字になって、天井を薄目で見上げていた。
僕は再び本に目線を落とす。留学。かかるお金。それらの情報をなぞっていく。
必要な試験のスコア。準備期間。変わらなかった母。変わらない姉。勝手な父。勝手な妹。留学後の進路。僕の未来。僕の人生。僕の家族。逃げた妹。無言で食べるだけの僕。逃げない姉。いなくなる僕。逃げない姉。
姉は、ぽっこりとはち切れそうな自分の腹を撫でた。
「あー苦しい。ほんと、もう、破裂しそうだよ」
(了)
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短編集『わたしたちには なやみなんてない。』収録 ※現在完売
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